どんなに慎重に歩いてももう音がなるのが避けられないほど痛んだ床板。不潔ではない、しかしけしていい住処とは言えないがここ数年を考えれば良い方だ。贅沢が言える身ではない、言う気も無い。
夜も更けてもう音を立てるものなど無いはずなのに微かに聞こえる声がそう遠くないうちにこの住まいを出て行かなければならないということを示していた。犬夜叉は細く息を吐いた。空腹と眠気を抱えた体はどうにも動くことが億劫で自然動きが鈍くなる。
戦後幾らかはまだよかった。まさかこうも生き難い世の中になるなど思いもよらず。
「昼間も来ていた」
ぽつりと呟かれた声にああ、同じことを考えていたのかと。
殺生丸から声をかけられることは今となっては酷く稀なことだった。その理由は無論その性格から来ていると言っても間違いなかったがそれにほんの少し、話すことさえ辛くなっているのもきっとあるのだ。事実、殺生丸は日がな眠っているのでなくとも目蓋を閉ざしている。もう目を開いていることさえ負担なのだ。
「そろそろ移動しねぇとならねぇ」
言葉を返すことで久しぶりに会話をした、と思った。
少し、ほんの少しだ。心持程度のその違い。そのくらいしかもう犬夜叉の体は人間とそう変わりなかった。少し力が強く少しからだが頑丈、その程度だ。
月の殆どは黒髪になる体は今はもう大して役に立つものではない。正しく衰弱している。弱いとは死と同義であるならば確実に死に近づいている。恐怖は無い、ただ世界がゆっくりと作りかえられていく感覚を覚えるのだ。
よくわからない、最初は村に生まれた一人の子供からだった。前兆はその以前からあったのかもしれないが少なくとも犬夜叉が気がついたのはそれが初めてだった。
その子には「妖怪」が見えなかった。
そこからは一気にだ、10年経つうちには二人の人間に会えば一人は妖怪の姿が判別出来なくなっていた。本当によくわからない。大気から、地から妖気が薄まっていくのを感じた。
まず図体のでかい大して力の無い妖怪から消えていった。今はもう人に害する妖怪など殆ど居ない、居ても居なくても大差ないような小さく弱い妖怪だけだ。そして強い、力の持った妖怪は。多分、これは犬夜叉の推測の域の問題だ。しかしあながち当たってなくもないと思う。
強い妖怪は自ら死を選んだのではないだろうか。
妖気の薄くなった地上で動けなくなるほど弱体化し生きたまま以前は歯牙にもかけなかったちっぽけな妖怪とも呼べぬような生き物に喰われていくくらいなら、と。
強いがゆえになかなか体は消えず強いから妖気が弱すぎると生きてはいけない。強さは二重に首を絞めることになりそれは犬夜叉の兄をけして例外としてくれることはなかった。美しい大妖怪は今はもう一人で生きていくことはおろか、自ら死を選ぶ力さえ残されてはいなかった。
心持利きが悪くなった華でも疑うまでもなく犬夜叉は殺生丸の匂いを嗅ぎ分けた。存外、近い。匂いは微動だにせずその静けさたるや無視をし難いほどだった。多分この異変は殺生丸にも影響している。
犬夜叉は長きに渡る兄との関わりの中で一度として、その弱った姿を見たことが無い。
劣勢になる、負傷する姿はあってもその姿が弱体化したのは未だ見たことが無い。そのような姿を見ることなど夢にも思ったことがなかった。好奇心は確かにあった、しかしそこになかなか足が向かなかったのは万が一だ。万が一殺生丸がそのような事態になっていたとしてやはり、見たくないと。犬夜叉の中の殺生丸にそんなことが起きてはならなかった。
三日たち、一週間経った。いよいよ動かない殺生丸をもう犬夜叉は無視して過ごすことなど出来なかった。
「…近付くな」
流石、と言うべきなのかは最早わからなかった。犬夜叉の肉眼だけでは少なくとも何十もの小妖怪が大木の幹の根元に凭れ掛る殺生丸に群がっていた。しかしそれらは殺生丸に触れる前に蒸発するかのごとく消えた。殺生丸の体の中に巡る毒の臭いが漂っていた、それだけで絶命するものも居た。
それでも、それらは物の数には入らない。兄の世界には今この空間には二人しか存在しえなく発せられた言葉は間違いなく犬夜叉にかけられていた。
「動けねぇのか」
まさかとは思った。それでも現状を見ればそう思わずには居られない。醜悪な餓鬼に囲まれて不快なわけはないのにそこを動かない。もう何日も。
沈黙は、肯定だった。
体中が緊張した。もうあの男が、あの殺生丸が厭わしいものを払う力も無い。微弱な毒で身を守るだけの姿に。
「皮肉なものだ」
その姿は静謐だった。犬夜叉は見てはいけないものを無理矢理見せられているような気分になったが、それでも視線が外せない。
「お前は影響を受けぬだろう。人間の血が流れているお前にはな」
言葉の通りだ、犬夜叉の体には未ださほど大きな変化は起きないままですんでいる。
「…全くっつーわけじゃ、ねぇけどな」
「だが死ぬことは無い」
犬夜叉は今月に三度、人間になる。もう自分の行く先が分かってはいた。
黙ったまま犬夜叉は二三腕を振るった。それでこの空間は正しく犬夜叉と殺生丸のみになる。
もうお互い、誰も居なかった。
慈しんだ者も、心を許した者も。既に国は統一されて久しくお互いの姿をこうして見えるのも事実100年は裕に越えてのことだ。殺生丸には外見に変化はなかったが、犬夜叉は変わった。ほんの数歳だが歳を経たように見える。
もう二人に歳の差は殆ど見られなかった。
犬夜叉は当時の自分の考えや心の動きをうまく思い出すことが出来ない。弱く衰えていく体を抱えた兄をまさか哀れに思ったのか、それとも過去に出来なかった家族を守るという行動を殺生丸にすることで自分を満足させようとしたのか。あまりに昔のことでもはや定かではない。
ただ今、驚くことに犬夜叉が生きてきた中で一番生を共にしたのはあれ程命を取り合った兄だった。
犬夜叉はあの弱った兄を保護し、そして共に生きた。何年も、何年も。その後犬夜叉から流れ出る妖気が殺生丸を回復させたのか殺生丸は犬夜叉の元を去った。犬夜叉は止めなかった。
それから三年も経たないうちにまた動けなくなった殺生丸を見つけることをわかっていたかのようだった。
あとは何百年もそうしたことを繰り返した。動けなくなった殺生丸を連れる。世話をしながら生活する。動けるまでになったら殺生丸は居なくなる。そしてまた見つける。何の意味も無い繰り返しだった。
そして時代は変わった、もう未開の地など殆どなかったしその地で生きていくような力がもう残されていなかった。だから人里からも離れすぎず人が寄り付かないような場所に居を構えた、大体は廃屋だ。もう人間に自分たちの姿が見えないことも犬夜叉はよくわかっていた。だからこそ人に見つかると厄介なのだ、人が居るはずの無い廃墟に生活の痕跡がある。そんなことになろうものなら一気に騒がしくなりそこには住んでいられない。
今の人間は煩しい。少しでも珍しいものがあるとそれを怖がりながら近づいてくる。特に年若くなるとその気が強くなり廃墟と見ると何かしらの曰くをつけて中を覗きにやってくる。傍迷惑な話だ、それで何度移動を繰り返したことか。
思わず溜息が口をついて出た。その音に横になっている殺生丸が片目を開けてこちらを見て、犬夜叉と目が合うとまたゆっくりと閉じた。
犬夜叉は、驚いた。殺生丸はもう何年も犬夜叉と目を合わせていない。
それは犬夜叉がその長かった髪を短くしてからだった。
何年か前、いっそ現代社会に溶け込んでしまおうかと試みたことがあった。うまくいけばその方がよほど楽でいい生活が出来る。身分証明などは田舎に行けば二の次だ、それっぽい事情を上手く説明すれば選ばなければ住家だって借りられる。
その時、髪を切った。
犬夜叉の長い髪はあまりに目立ちすぎた。目立っていいことなど何一つ無い。そして犬夜叉はその姿を見た殺生丸の目を、けして忘れない。別に髪にそういう仕来りがあったわけでも無い。ただ、犬夜叉自身も思ったことだ。
捨てたのだと。自分は妖怪であった誇りや色んなものをそのとき捨てたのだ。
今でも犬夜叉はそのときの行動を悔やんだりはしていない。誇りは腹を膨らませてはくれないし凍えた体を温めてもくれないのだ。
結局その住家は妖怪の状態であるときに人が訪れ、姿は見えずとも声がするという状態になってそれ以上とどまることが出来なかった。それ以来人間に混ざることは諦めた。髪を短いままにしているのはある意味戒めに近いのだと思う、何に対してかは犬夜叉自身わからなかったが。
今、時は近づいてきていると犬夜叉も殺生丸も言葉に出さずともわかっていたしお互いわかっているだろうとも思っていた。もう犬夜叉の時間は殆どが人間の体で過ごしている。妖気を出さない、人間の体。それは当然殺生丸の体を回復させることは無い。
きっと殺生丸は、冬を越せない。
確信じみた思いだけがあった。ああ、こいつは来年の桜を見ることは無いだろうなと漠然と思う。それは犬夜叉にとってひどく、ひどく寂しいものであった。殺生丸が死ぬと、犬夜叉は一人になるのだ。
既に死んだような様相を見せる殺生丸の顔を覗き込む。呼吸しているかどうかもわからないくらい動かない。
犬夜叉は、ずっと聞きたいことがあった。
そして今、それを聞かなければ永遠に答えは聞けない気がした。
「殺生丸」
答えるどころか息さえ乱れない、動かない。
「なんでお前、動けるようになったとき自分で死ななかった?」
眠ってしまったのか、無視したのか。
何にせよいくら待っても答えは返ってこなかった。
「……ありがとう」
犬夜叉は呟いた。
もしお前が最初にいなくなったとき死んでいたら。
今、時は近づいてきていると犬夜叉も殺生丸も言葉に出さずともわかっていたしお互いわかっているだろうとも思っていた。もう犬夜叉の時間は殆どが人間の体で過ごしている。妖気を出さない、人間の体。それは当然殺生丸の体を回復させることは無い。
きっと殺生丸は、冬を越せない。
確信じみた思いだけがあった。ああ、こいつは来年の桜を見ることは無いだろうなと漠然と思う。それは犬夜叉にとってひどく、ひどく寂しいものであった。
殺生丸が死ななかったから、犬夜叉は一人ではなかったのだ